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私を束ねないで

「わたしを束ねないで」という新川和江さんの有名な詩がある。
娘の国語の教科書にも載っている。

この詩の中で、すごく私の気持ちに近いところが、次のフレーズ。

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わたしを名付けないで 娘という名 妻という名
重々しい母という名でしつらえた座に坐りきりにさせないでください
わたしは風 りんごの木と 泉のありかを知っている風

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この社会は、私にいくつかのレッテルを貼り付ける。
「束ねないで」と嘆くだけでは気がすまない私は、そのようなレッテル貼りに全面的に反発して生きたかった。
事実、自分にあった「娘」と「妻」という名を切り捨て、そのような自分の選択そのものを社会に投げつける気持ちで生きていた。
しかし、「母」という名だけは、物理的に切り捨ててしまうことができなかったために、とても苦しんだ。
「母」は、私の一つの部分にしかすぎない。
それなのに何をしても、何をしゃべっても、私は「母」として見られるし、そのように扱われる。
「お母さんだから」「お母さんなんだし、こうだよね」…。暗黙のプレッシャー、決め付け。
私はこの社会に完全に居場所をなくしてしまった。

だから、少し前まで、私は「シングルマザー」と言われることに、ものすごく嫌悪感を抱いていた。
実際、このように言ってくる人に対して、逐一、「私はシングルであり、あなたにマザーと言われるのは違う。私のマザーは子どもに対する関係のみでそうなる」と説明をたれていたのだ。

今でも、この気持ちは変わらない。
しかし、私の違和感を、この社会の圧倒的大多数は理解しえないことを知ったから(理解できるような人は、そもそも常識的になんか生きていやしないんだから)、今では「ハイハイ」という感じでスルーできるようになった。
理解しえないことを無理やりに理解させることよりも、違和感で生きづらくなっている人たちと、もれなくつながっていくことに自分の力点を置きたいと思っているのだ。
そして、違和感を持っている人は確実に増えているし、そのわりには、そのような人たちがまだまだ社会に浮遊してとまどっている現実に対し、自分ができることをきっちりやっていきたい。
そして、「マザー」の問題は、シングルもシングルでない人にとっても、共通の大きな社会問題で、その矛先が弱いシングル・ペアレントの女性に向いているという捉え方をしたい。

娘、妻、母、それ以外にも、いろんな名が私には付けられている。
それらに対して、丁寧に反発していきたいと思う。少しずつ、一歩ずつ。
「りんごの木と 泉のありかを知っている風」なんて、さわやかなものにはなれそうにないけど。

Azuchisora_3

少し不安はあるけれど、未来を信じて顔をあげていこう。

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コメント

その教科書は光○ですね。私の勤めてる個人指導塾には光○使ってる子どもさんと違う教科書の子がいて2倍の文章に接することができます。
 特定の側面で判断してしまう人は多いですね。多面的かつ客観的に物事をみることって大切だと思いますけど、ホント日本では進みませんね。

投稿: かじか | 2007年5月27日 (日) 01時41分

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